早園正

株式会社アゾンインターナショナル
代表取締役社長 早園 正氏

PROFILE

日本のポップカルチャーとベトナムの技術力を合わせて新しいアイテムの提案を続ける。1986年「湘南スクリーン」を開業し製版業を手掛ける。大型カメラ、ワークステーション、専用プロッターなどの導入で手作業を自動化。1996年ベトナムに事業所を開設、人形服を含むOEM製品の生産を開始。1998年別会社「アゾンインターナショナル」を設立、自社ブランドのドールと関連アイテムの企画、販売を開始。「サアラズ ア・ラ・モード」をはじめ「えっくす☆きゅーと」「KIKIPOP!」など各オリジナルドールシリーズを展開すると同時に米国Integrity Toys,inc社製「FR MISAKI」の日本総代理店となる。現在、秋葉原、藤沢、名古屋、大阪に直営店を出店し自社製品の他に人気ドールーメーカーの製品も揃うドール専門店を展開。一方でオリジナルコンテンツ「アサルトリリィ」の演劇舞台化を開始。3作目の公演が2017年3月に予定している。

http://www.azone-int.co.jp/

ホビー・グッズ業界を牽引するリーダーたちにフォーカスを絞り生の声をお届けする、株式会社カフェレオ 内山田の対談企画。第7回目のゲストは、神奈川は藤沢からワールドワイドに展開するドール製造メーカー 株式会社アゾンインターナショナル 代表取締役社長 早園 正氏に登場していただきました!いつの時代も自身の感覚と信念に基づき、道なき道を開拓されてきた早園氏。「必ずまた次のものって出て来ると思うし、作れると思っています」という自信の根拠は、如何なる運命も受け入れ常に可能性を信じて躍進し続けて来た経験によるものだと、数々の仰天エピソードから感じ取りました。両名で会食にも行く間柄とのことですが、改め対面にて語り合うことで新鮮な発見があった、非常にテンポ感のよい経営者トークをお楽しみください!

[スピーカー]
株式会社アゾンインターナショナル 代表取締役社長 早園 正氏
株式会社カフェレオ 代表取締役 内山田 昇平
取材日:2016年9月29日 場所:アゾンインターナショナル
構成:里見 亮(有限会社 日本産業広告社)

同時に同じことを考えていたようです。それが『サアラ』という商品になりました。

内山田 昇平(以下/内山田):今日はお忙しいところをありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。

早園 正氏(以下敬称略/早園):こちらこそよろしくお願いいたします。

内山田:先日は舞台「アサルトリリィ」のゲネプロにご招待いただきありがとうございました。そのあたりの詳細なども後程聞かせていただければと。毎回、雑談形式でいろいろなお話をお伺いしております。まずは、早園さんがこのお仕事を始めたきっかけなどからお伺いできますでしょうか?

早園:当初は玩具、ホビーメーカー各社様から発売するフィギュア用のコスチュームを量産受注しながら、自社製品としてドール用の「着せ替え用衣装」だけを作って販売していました。作った服をホビー誌などで宣伝するために、着用サンプル例として何かしらの人形に着せ付けて写真を撮る必要があるのですが、当時は自社のドール本体(製品としての)が存在しなかったので、他メーカー各社さんに「服のモデルとして着用させて欲しい」とお願いしましたらご快諾をいただき、掲載することが出来ました。立ち上げて数ヵ月はそれでよかったのですが、そのうちに自社のドールに服を着せて売りたいなと思い始めた一方で、それを弊社がやるのは取引上ルールに反するのかな?などの疑問も若干もっていたため、数社さんに正直に相談したところ、各メーカーさんたちが「それならうちが協力してドール作りますよ」と言ってくださいました。

内山田:へぇ~それは面白いですね!

早園:とても有難いお話です。その時にタカラさんの『ジェニー』のボディを使わせていただき、顔だけオリジナルで作ってみることになりました。しかし売れるか売れないかわからなかったので、おっかなびっくりで生産をたったの600体とかなり抑え気味にしました。でもそれを発売するに当たっては、どういう風合いでドールを作るかということを考えていました。その頃にもドールアーティストと呼ばれて、市販ドールの顔だけを消して描き直す人が結構いたのです。マンガ家やイラストレーターの方々に多かったのですが、デッサン用のポーズ人形に顔を描いていて、どうせならば自分の好きな顔をドールに描きたいなと思っていた方も多かったのです。そういう作品がネットにも掲載されていたのですが、その中の一つの作品のページに行ってみたら「これはかわいいなぁ」と思って。当社のドールで量産をお願いしてもOKを貰えると思えなかったのですが、結局、意を決してメールを送ってみたのです。そうしたら数秒後にその作家さんからメールが届いたので「あれ?送信エラーかな??」と思ったら、同じタイミングでその作家さんから「アゾンさんで私のドールを量産していただけませんか?」という旨のメールだったのです!

内山田:えっ!早園さんへの返信ではなく!?

早園:はい。同時に同じことを考えていたようです。それが『サアラ』という商品になりました。

内山田:もう運命ですね!伝説みたいな話ですよね!!

早園:発売時はまだネット通販がそんなに拡がっている訳ではなかったので、ありったけの電話とFAXを10台くらい並べて、発売開始の午前10時を待っていました。とはいえ、そんなにたくさんは売れないだろう…と思っていたのですが、いざ10時を回ると30分で売り切れてしまったのです。

内山田:凄い!ということは、この『サアラ』がアゾンさんの中でのオリジナル第一号ということになるのですね。

早園:そうです。これがアゾン的な作風の原点ですね。

そう言われてしまうとこのまま会社を縮小してしまうのはもったいないなと思うようになりまして。

内山田:いきなり衝撃的なお話から始まった訳ですが、改めて会社設立の成り立ちからお伺いしてもよろしいでしょうか?アゾンさんは今年で何年目になるのでしょう?

早園:今年で26年目になります。会社設立の成り立ちについては、更にそれ以前、父親が横浜の地場産業であるスカーフやハンカチなどのプリント型を作っていました。当時は事業が好調で会社の規模も業界一大きかったようですが、ある時業務を拡張しようとし、トラブルに巻き込まれ会社を整理することになり生活も大きく変わりました。その後も父親は様々な違った商売を模索しながら立て直しを試みていたのですが、そんなに上手くは行かず、「やはり自分の武器を持って戦わなければ」と奮起し、再度以前の業種で起業したのがアゾンの前身である「湘南スクリーン」となりました。その時の私はバイク屋でアルバイトをしていましたが、真剣に自分の生き方を考えるような時期で起業願望もあったので、Tシャツやステッカーなどにプリントをする会社に「独立することを前提に仕事を教えてもらいながらアルバイトをさせてください」と厚かましくもお願いをしました。同業者になるのだから大概は嫌がられるのですが、その社長は太っ腹に「いいよ」と言ってくださり、いよいよ独立する際には「早園君、これ古くなった機械だけど持って行けば?」とちょっとした設備や材料などを持たせていただきました。その社長にはもう一度お会いして改めてお礼を申し上げたいと思っております。こうして大学のクラブや社会人のサークルなどでチームオリジナルのTシャツやステッカーなどの仕事を受注して、自分自身で細々とシルクスクリーンの商売を始めたところ、先に立ち上げた父親が病気になってしまい、そちらも手伝うことになりました。そこで「どうせなら一緒にやって一つの会社にしてしまおう」ということで当初の形となりました。その後、父は立ち上げた会社を一年間回し亡くなりました。

内山田:そうだったのですね。早園さんには生粋の商売人気質が流れているのかもしれないですね。

早園:子供の頃から商売を営む環境の中に入れられていたおかげかもしれません。

内山田:なるほど。その時早園さんはおいくつだったのでしょう?

早園:21歳の時でした。父亡き後、当時はバブルだったこともあり、たちまち会社が大きくなって行き、同業者が60社ほどあったのですがすぐにトップ5に入るようになりました。しかし、10年ほどで我々のスカーフ・ハンカチ業界ではバブルの崩壊が一足先にやって来て、仕事が瞬く間になくなりました。我々の仕事は表立った商売ではなく、クライアント先である大手の繊維・アパレル会社があって成立していましたから「君らは、良いものを、安く、早く、作ればずっと仕事はあるよ!」と言われる立場で、休まず寝ずに仕事を続けていたのですが、バブルが終焉する頃にはクライアント先から「今売れないんだから仕事なくて当然でしょ」となってしまい…。そこで仕方なく、従業員を集めて「来月から給料払えなくなるかもしれないから、今のうちに次を見つけて欲しい」と伝えたのですが…誰一人辞めないのですよ。

内山田:嬉しいけど辛いですよね…。辛いけど嬉しいみたいな。

早園:本当にその様な心境でしたが、これは辞められないなというか、そう言われてしまうとこのまま会社を縮小してしまうのはもったいないなと思いまして。そこで、当時はアジアブームということもあり、以前からお付き合いのあった台湾や韓国など、その国特有の雑貨を引っ張って来て次の商売に繋げるまで扱って行こうとしました。その時に出会ったのが「ベトナム」なのです。

当時多くの企業が中国に進出して行く中で「早園さんは何でベトナムなの?」とよく言われていましたけど。(笑)

内山田:ベトナムとの出会いは、その後の早園さんに影響があったのでしょうか?

早園:とても大きく影響しました。アゾンの所在地の藤沢市から大和市にかけてベトナムの方が多く住んでいまして、そんな中でベトナム戦争から避難してきた人と出会いビジネスをすることになりました。当時多くの企業が中国に進出して行く中で「早園さんは何でベトナムなの?」とよく言われていましたけど。(笑)で、ベトナムへ行きまして「じゃあ、ベトナムで何やろうか?」となるのですが…

内山田:えっ?ベトナムへは何も考えずに行ったのですか?

早園:「きっと何かしら商材や技術はあるだろうなぁ」という感じでしたね。「何か珍しいモノがあったら入れよう!」とは思っていました。当時、スパンコールのサンダルが流行っていたのでそれを入れてみたり、椰子の木を加工してスプーンやお皿などの食器を作って雑貨屋の量販店に卸してみたりとか、コーヒー豆を扱ったりとか…。それでも商売としてまとまったレベルにはならなかったので、そのうちに会社の資金も体力も失って行きました…。その時私が30歳を過ぎた頃で、製版業として立ち上げから数えて10年経ち、何か決め手となるビジネスをものにしなければと考え続ける中、ホビー業界の方から「人形の服は縫えないか?」というお話をいただきました。「そんなの作れるのかなぁ?」と思ったのですが、サンプルを持ってベトナムへ行きました。現地で「こんなの縫える?」と聞いて回ったのですが、皆「I see!I see!見たことあるぞ!」と言うのですよ。蓋を開けてみると大概できないとなるのですが。(笑)やっと時間をかけて縫えるところを見つけて、ミシンを改良したりして、結果的に良いレベルで作ってしまったんですよね。で、発注元に見てもらったら「これ日本で作っているものよりクオリティ高いですよ」と言っていただきまして。それが人形の服作りの始まりだったのです。

内山田:コストパフォーマンスもよかったのでしょうか?

早園:よかったですね。当時は皆「中国、中国」となっていたから工員さんも集まりやすかったし、ベトナムへは日本企業がほぼ入り込んでいなかったですしね。

内山田:当時の人形の服は日本国内で作られていたのですか?

早園:北関東から東北にかけて作っているところが多かったようです。ただ、既に高齢化が始まっていたので、各社さんで「これからどこで作ろうか」という時期だったようですね。そんな中海外で量産体制を整えられたので、当時は「湘南スクリーン」という社名でやっていたのですが「湘南スクリーンがこれからの人形服の星だ」なんてことをおもちゃメーカーさんに言っていただきましたね。

内山田:それがアゾンさんの前身だったのですね。ということは、早園さんの会社が人形の服の製造の将来を担って行くぐらいの期待を持たれて。

早園:それも極端な話かもしれないですけれど、今思うとそこを背負っていく覚悟も持っていたかもしれません。
それでも、ベトナムで開業するのは苦労の連続でした…。その頃はドイモイ政策(刷新)が始まった数年しか経っていなく、大手企業が行ってもなかなか開業できないケースもあったようで、諦めて撤退したのか舗装されていない道端に日本製のミシンが大量に捨ててあったのを見かけましたね…。JETROもあるにはあったのですが実際はまだ情報集めの段階で、その後は日本の法整備支援などの効果が出て日本の企業も入りやすくなったようですが、我々はその前ですからね。身の危険を感じるようなこともありましたし、ここでは書けないようなこともいろいろありましたよね。(苦笑)

内山田:「出た所勝負」のような感じもあったのでしょうね。仕事やるのも命がけ…。

早園:その時は現地の人を社長として立てて開業できたのですが、それでもいざ始めて「ここで仕事をしているよ」という既成事実を作って行ってしまうとどんどん進んで行きました。ベトナムの人は親族・身内で助け合うという習慣があるので、工場を一つ立ち上げるとその親族の方たちが皆で協力し合って働いてくれるのです。おかげさまで今では主に14工場が弊社の人形服を専門で作っています。

内山田:それにしても25年前というと僕がまだ20歳の頃で、パソコンもそんなにないし、まだメールだって…

早園:なかったですね。当時のベトナムはメールどころか電話すらろくに無くて、「電話するから一度ホテルに帰るね」というところから始めていたんですよね。通話料も数分使うとすぐに数千円になってしまいましたから、伝える内容を決めてから一気に話すように心がけていたことを憶えています。

内山田:なるほど。

早園:だからメールができるようになったのは夢のようで「なんて経済的で便利なんだ!」って駐在員と今でもその頃の話をしたりします。

内山田:そうか…その時代だったんですね…。今ですら苦労する話を聞きますけど、インフラができていない時代の話ですものね。ということは、早園さんは「仕事的な体力」をそれくらいの頃から付けて来たということなのでしょうね。20代後半くらいから。

早園:自分だけではなく、当時ベトナム立ち上げに携わった社員たちも身をもって鍛えられてきたと思います。

自分で作ったものは自分で並べなければいけないし、自分で並べたいものは自分で作らなければいけないと思うようになりました。

内山田:人形の服を作り始めて、すぐ商売として成立しましたか?

早園:半分は成立しました。ただ、クライアントさんも一生懸命お話をくださるのですが、実際に企画が通って「作る、作らない」となるのはクライアントさんの決断次第となりますので。

内山田:そうですね。

早園:そうなってくるとスカーフやハンカチを作っていた時と同じで「ごめんね、今はないんだよね…」ということになってしまうのです。

内山田:あぁ、それはもう早園さんの中の経験値として、トラウマではないけれど一つの基準ができてしまったということですね。

早園:「これはまた同じことをしてしまう」という。

内山田:はい。「自分で『コントロールできること』をやって行かないと!」と。

早園:仰るとおりです。ベトナムの方は、同じ仕事を生涯やり通すことに日本人ほど美徳を感じていないようで、数ヵ月先の仕事まで決まってないとすぐ他の仕事に移ってしまう。せっかく育てた工員さんがやめたらもったいないとも思ってですね。であるならば、内山田社長が仰っていたように自社のペースで一年間計画を立てて工員さんたちにも「これだけの仕事がありますよ」と提示し、年間通して平均してできるところでやって行こうとオリジナル商品を始めた訳です。その時に、クライアントさんが居る立場で「湘南スクリーン」としてやるのは抵抗もあったので、別会社として「アゾンインターナショナル」を設立しました。

内山田:なるほど。今でこそ商流を縦断することは普通になっていますが、以前はOEMの会社がオリジナル商品をやることは御法度な雰囲気がありましたよね。

早園:繊維捺染業界では御法度でしたので私もそう思い込んでいました。しかし、ホビー業界って実はオープンに未来を向いていて「やってもいいんじゃないですか」と言ってくださるところも多くあり、いろいろ後押ししてくれたんですよね。それで冒頭のお話にも繋がるのですが、服だけでなく人形も含めたオリジナル商品として『サアラ』を始めた訳です。

内山田:最初から順調でしたか?

早園:はい、当時の弊社の規模に対して商品の反響と手応えは十分にありました。気になっていたクライアント先様の受注をしながらメーカーの立場をとることについても、「第二次流通革命」というキーワードが定着していたタイミングでしたので、OEM品の受注が減ることもありませんでした。工場が製品を発売したり、メーカーが直接店舗を出店したりしても認められ始めたタイミングでしたね。

内山田:いわゆる問屋不要論と言いますか…

早園:内山田社長には申し訳ないのですが。(苦笑)

内山田:いえいえ、よくわかります。(笑)

早園:でも、問屋さんが自社商品を企画してもいいとか、店舗さんが自社商品を出してもいいとか…それに対して、我々が人形の服だけ作っても売れるのか?ということもあったし、実際に問屋さんにも取ってもらえなかったですからね。自分で作ったものは自分で並べなければいけないし、自分で並べたいものは自分で作らなければいけないと思うようになりました。当時アジア最後の経済拠点のベトナムと繋がって行ったり、おもちゃは大人が買ってもいいんだよという雰囲気が立ち上がって来たり…

内山田:「玩具」から「ホビー」へというか、秋葉原もPCから「サブカルチャー」に変化する頃ですよね。

早園:そうです。そしてあともう一つ、先程の話にあったようにインターネットが発達し始めたという、これだけの前向きな条件が揃っていたら悪い訳ないなと思ったんですよね。

内山田:タイミングと条件が重なる時期だったんですね。

常に何かやっていないといられない。で、上手く行ったことに対して脳内から気持ちよくなる物質が出ていてまたそれを求める。(笑)

内山田:商品のお話に戻しますと、『サアラ』の次にフックになったブランドが『えっくす☆きゅーと』になるのですか?

早園:『えっくす☆きゅーと』の発売に当たり「ピュアニーモボディ」という本格的に自社で開発したボディが投入開始となりました。最初のボディを開発した時は、やはり1年半くらいかかりましたね。最初は国内生産のソフビからやって行きました。今は四代目になります。

内山田:早園さんはドールのユーザーをターゲットにしながら底を広げて行かれたというよりは、仕事で関わり合いながらどんどん核の部分に入って行ったような感じなのですか?

早園:どちらかというとそうなのかもしれないですね。
ただ、あの…今日の対談の前に過去の記事を拝見したのですが、経営者の皆さんはなんか…変な意味ではないのですが「仕事依存性」なのかなぁと感じまして。(笑)

内山田:もう病気かもしれないですね。(笑)僕もそう言われますが。(苦笑)

早園:(笑)常に何かやっていないといられない。で、上手く行ったことに対して脳内から気持ちよくなる物質が出ていてまたそれを求める。そういうアクションをしていないと今度は不安になるとかね。(笑)

内山田:走っていないと死んじゃうというか、満足できないんでしょうね…。1回やってしまうと次もやらなければいけないし。

早園:そうだと思いますよ。またそれでユーザーさんなどが喜んでくれると、そこでハイになって行きますからね。でも、基本的に「仕事好きか?」と聞かれたら私はわからないですね。

内山田:それわかります。

早園:休みの日の方が好きですよ。どちらかというと。土日が好き。金曜になると嬉しくてしょうがない!(笑)残業なんかしているのを見ると「もう帰りな!帰りな!」って。(笑)

内山田:いい社長じゃないですか。(笑)
先程、社内をご案内していただきましたが、この本社の建物ではどのような製造工程を行っているのですか?

早園:一度、全部材をアウトソーシングした各方面から集めて、ここでアッセンブリしています。

内山田:えっ、こちらでですか?それは大変でしょう…。

早園:以前『KIKIPOP!』という商品を発売した時に大勢のお客様が店舗に並んでくださり、たちまち売り切れてしまいました。どうしても「欲しい!」という声をあまりに多くいただいたもので、その日のうちに追加生産を決め、急遽希望される全員のお客様に行き届くようにしました。結局全部納品するのに8ヶ月くらいかかってしまったんですけどね。

内山田:そんなにかかったのですか!

早園:同時に受付けたので予約順という訳に行かなくて、一斉配送しなければいけなかったので商品が全部できるまでお待ちいただいたのです…。ドールの製造って結構やることが多いんですよね…。服だけ入荷してもボディがまだ到着しないとか、意外なことにまつ毛だけがまだ来ないとか。(笑)

内山田:パーツは主にどちらで生産されているのですか?

早園:服はベトナム、植毛とマスクを含めたヘッドは日本、ボディは中国です。

内山田:で、アッセンブリは藤沢。フィギュアメーカーさんの多くは中国で製造するから5万個10万個となっても向こうでできるけれど、アゾンさんはそういう訳には行かない…。メイド・イン・藤沢ですね!これは大変…。仕切りも含めて。

早園:でも、一度自分たちの手を通した方がいいかなと思うんですよね。ドールのお客様はとても細かいところまで見られているので。フィギュアも同じでしょうけど。最終的にお客様に納得のいく商品をお届けするには、必要な工程かと思っております。

立場上、ビジネス的視点で観劇しようと心掛けているのですが、所々でやられちゃってね…。

内山田:先日お伺いしました『アサルトリリィ』の舞台についてもお話を伺いたいのですが。

早園:お忙しいところを劇場までお越しいただきありがとうございました。

内山田:いえいえ。とてもよかったですね。ドールというと自宅で着せ替えて遊ぶというイメージがありますが、そのドールに設定された世界観を舞台で実際に演じてしまうという新しい企画が新鮮でした。

早園:いろいろなところからユーザーさんを引き込みたいなと思っていまして。マイナータイトルですけどね。ただ、大きなタイトルをやると瞬間的に爆発力はあるのですが、それこそ不滅の名作にならないと長期間の販売戦略はできないじゃないですか?だから1年間で10億作るものなのか、それとも1年間で1億だけど10年続けてそれを10本持つことによって同じようなことができるのではと考えたりしています。

内山田:その戦略は重要ですよね。

早園:供給も一気にやると負担度が高いので。時間をかけて供給しながら需要も10年持たせる。一方で人気アニメのタイトルもやって、そこでドールの世界に入っていただくとか、そういった動きも大事だと思うんですよね。

内山田:舞台を拝見して率直に感じたのが、ステージに戦闘シーンからダンスまで加えながらテンションを変化させて世界観を伝えていく手法が面白かったし、新しいとも思いました。また「2.5次元」が流行っていたりして、今舞台がいいじゃないですか?人形のお仕事を始められたきっかけとかベトナムとの出会いなど、先程のお話ではないのですが今舞台が流行しているタイミングで、また早園さんよい感じでリーチされているなと僕は感じました。

早園:自分は最初、勝手な思い込みで、お芝居って敷居が高いというか、よくわかっている人たちがこの作品はどうだとか語り合っていて、知らないのに観てはいけないものだと感じていたんですが、ある時劇場を経営している知人からお誘いを受けたことをきっかけに舞台を観てみました。そうしたら「こんなに楽しいんだ!」となって。我々のホビーも人を楽しませるものだし、エンターテイメントもそれは同じだから共通しているなと。脚本を書いている人がアキバ用語を結構出してくるので「この人ホビーの範囲も研究しているんだなぁ」と思って、それもよかったですね。さっそく『アサルトリリィ』をプロデュースしているスタッフにその日のうちに電話して、「これ明日観に行って!」と伝えたら「これできますね!」という反応がすぐ返って来て。それが『私立ルドビコ女学院』さんとのコラボ作品になりました。

内山田:発想がアキバ的ですものね。地下アイドルではないのですが、皆で応援して行く舞台というところが。

早園:真面目に演劇の勉強を一生懸命やった女優さんたちが、アイドルを演じた上でさらにアサルトリリィの役を演じているから、おかげさまで完成度の高いお芝居に仕上がりました。

内山田:早園さんとしては自社のコンテンツが舞台として形になったのを観て、気持ち的にはどうだったのでしょうか?

早園:最初の舞台はすごくよくできて、これは可能性あるなと思い、二作目もさらにクオリティが上がり満席になって。現在は「宣伝活動」という位置づけで始めています。芝居が始まる前にドールの宣伝などをしていただいたのですが、一作目の時は(演劇のお客様からは)「ドールまではいらないなぁ…」と言われていたものが二作目では「買いますよ!」となって行ったんですよ。弊社よりもっと大きな規模のメーカーさんが、いろいろなところからユーザーさんを取り込んでホビー業界としての市場を拡張している中で、弊社も僅かながらでもそういう活動をやって行かなければいけないのかなと感じて、D-1(ストリートリーガル)で競技車両のスポンサーをやらせていただいたり、演劇にコンテンツを持ち込んだりしています。反対にホビーのユーザーさんが演劇を観に行くようになってもいいと思うんですよね。

内山田:それとてもわかりますね。

早園:画面上で見る映画やアニメというのも勿論いいのですが、デジタルがメインの中でアナログのああいう舞台を観ると感情移入しやすくて、もの凄く響いてくることがあるんですよね。

内山田:一期一会ではないのですが、毎回その状況によって違うこともあるでしょうし。「ライブ感」って大事ですよね。

早園:「ライブ」は面白いですね。立場上、ビジネス的視点で観劇しようと心掛けているのですが、所々でやられちゃってね…。劇場の照明が暗くなった瞬間にバレないように涙を拭くなんてこともあります。(笑)

僅か500、1000の企画でも「それ面白いからやればいいじゃん!」というのは残さないとですよね。

内山田:「ドール」というよりは「ホビー」というカテゴリーで、早園さんとしては将来的に考えて行こうとしているのでしょうか?

早園:ドールを含めたホビー業界ですし、もっと言ったらエンターテイメントだと思いますね。これからも一つのジャンルにこだわろうとは思いません。例えばドールで言えばですが、10年15年後には弊社のドールは喋っているかもしれないし、帰ったらお掃除しているかもしれない。ドールはまだまだ進化しますし、やれることはいっぱいあると思います。結局ドールは「埴輪」や「土偶」などかなり昔からあるじゃないですか?世界各国の様々な時代にあって、ビスクドールとか日本で言えばからくり人形とか…。人形自体がもう昔から「メディア」みたいなもので、その時代のスタイルを写し出しているんですよね。そういった意味では益々進化して行くと思います。今はそこにデジタルな情報だって載せられる訳で、遠い未来で発掘された時に「我々が生きた時代はこうだった」というものが立体的に読み取れたら素晴らしいですね。

内山田:今後のアゾンさんはどうなって行くのでしょう?

早園:それって事業継承という面でですか?(笑)考えますよ、勿論。でも、結論が出ないんですよ。昔は十年一昔と言いましたが、今は「三年一昔」の感覚じゃないですか?25年前に考えていたことが今のようになっていたか?というと、事業内容は全然違っている訳ですし、スタートの時には先ず取っ掛かりとしてその仕事をやっていたけれど、ずっとそれをやって行こうなんて全く思ったことないですからね。ある意味、先のことを考えるのは絶対に必要ですが、下手に読まない方がいい部分もあると思うんですよね。決めない方が。生物も環境に合わせて姿を変えるようにフレキシブルに動けるようにしておかないと…変わるんですよ!我々よりも広い範囲で。だから今やっている人形を軸に「今これだ!」と決めたことに集中してやって行けたらと思っていますね。

内山田:そういう意味で言うと、先のことは流れの中でやっていきながら対応していくと。

早園:何でもいいから1位になることでチャンスは掴めると思うんですよね。例えば弊社の商売は本当に狭いところですよ。いろいろなものが世の中に溢れている中で、「ホビー」の中の「ドール」の中の「服」というフォルダーの深いところでの1位ですからね。そんな位置でも1位を取って展開して行くと、価格の決定権とかルールとか、全部決められるのは大きいですよね。そして参入業者さんもウェルカムにして、少しずつでも広く健全なマーケットを作って行きたいですね。

内山田:これは、やって来た人だから言えることですね。

早園:必ずまた次のものって出て来ると思うし、作れると思っています。事業継承が従業員とか外部の人とか、あるいはM&Aだったりとか…この先いろいろなことがあったとしても、アゾンがアゾンでなくなることはちょっと…まぁ最悪それでも残ればいいのでしょうが、できれば今のアゾンでね、運営したいですよね。僅か500、1000の企画でも「それ面白いからやればいいじゃん!」というのは残さないとですよね。

内山田:なるほど、早園流経営論ですね!
今日はたくさんのお話をありがとうございました!

早園:こちらこそありがとうございました。